日本における西洋灯台の黎明期を支えた2人の日本人技師
2019/09/03現在、日本で見られる西洋式灯台は、そのすべてが明治維新後に建設されたものだ。最初にこれを作ったのは、1865(慶応元)年に日本にやってきたフランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニー。彼の本来の来日目的は造船所を建設することだったが、日米和親条約や江戸条約を交わしたことで灯台整備を急ぐ必要があった徳川幕府が依頼し、観音埼、野島埼、品川、城ヶ島の4つの灯台の建設に関わることになる。
1868(慶応4)年、「日本灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンが来日。そこから1876(明治3)年までの8年間で全国の沿岸に30基あまりの主要灯台を作り上げる。
ブラントンがイギリスに帰国後、灯台建設の任務を引き継いだのは藤倉見達(ふじくら しょうたつ)だった。1851(嘉永3)年、膳所(ぜぜ)藩の医師の息子として生まれた藤倉は1865(慶応元)年から横浜で英語を学び、その後ブラントンの通訳に抜擢。このとき実地で灯台に関する技術を身につけていく。さらに1872(明治5)年から2年間、イギリス・エディンバラ大学に留学。最新技術を身につけて帰国すると、ブラントン離日後の日本で灯台建設の陣頭指揮を取る。
1885(明治18)年、工部省燈台局長に就任した藤倉。さらに翌年には工部省に代わって設立された逓信省燈台局長に就任する。当時藤倉は、灯台補給船・明治丸に乗り込み、頻繁に日本各地の燈台を視察していたという記録が残されている。また藤倉時代のエポックとしては、日本初のコンクリート製灯台である鞍埼灯台(宮崎県日南市/1884(明治17)年初点灯)が挙げられる。
1891(明治24)年に藤倉が退官すると、代わって灯台建設を担ったのが石橋絢彦(いしばし あやひこ)だ。江戸に生まれた石橋は1879(明治12)年に工部大学校(東京大学工学部の前身)土木科を卒業。イギリスに留学し、イングランドの灯台を管理するトリニティ・ハウスのジェイムズ・ニコラス・ダグラス技師長に灯台の建設法を学ぶ。帰国すると灯台局に勤務し、北海道をはじめ幾つもの灯台の設計・建設を指揮した。
また石橋の活躍は海を越えて行われることにもなる。日清戦争が終結すると、1895(明治28)年に朝鮮半島に派遣される。それまで日本と清国の間で朝鮮を巡る海運競争が行われていたが、日清戦争を日本が勝利したことで朝鮮半島周辺を運行する日本船舶が増加。それに対応するためだった。
石橋は1895(明治28)年の7月から8月にかけて朝鮮半島沿岸を調査し、灯台を建設するための測量を終える。
続いて石橋が赴いたのは台湾だ。日清講和条約により台湾総督府が設置されると、鹿児島から南西諸島を経て台湾に至る航路の確立と灯台建設の必要性が生じた。そのため陸軍省内に臨時台湾燈標建設部が設置され、ここに逓信省から嘱託の形で石橋が派遣される。1895(明治28)年7月に航路標識管理所技師および臨時台湾燈標建設部技師を命じられた石橋は、1896(明治29)年11月から1897(明治30)年4月の半年で釣掛埼燈台(鹿児島)、曽津高崎燈台(屋久島・奄美大島)、伊江島燈台・先原崎燈台、津堅島燈台(沖縄)、鼻頭角燈台・富基角燈台(台湾)を次々に点灯させていく。
その後、日本とロシアの緊張が高まってくると韓国における灯台建設が急務となる。1901(明治34)年、石橋は再度韓国に派遣されることとなり、1903(明治36)年には小月尾島燈台・八尾島燈台(仁川港)を点灯させる。そして日露戦争開戦後には韓国に駐在するイギリス人ブラウンと面会。対ロシア戦争のために朝鮮半島沿岸部の灯台整備に尽力していく。
そうやって日本のみならず、アジアのために灯台建設に励んだ石橋だったが、1906(明治39)年、健康上の理由から退官。長かった灯台技師としてのキャリアを終えることとなる。
ヴェルニー、そしてブラントンが礎を築き、藤倉、石橋が育んできた日本の西洋灯台の歴史。灯台を訪れた際には、そんな先人たちに思いを馳せてみてはいかがだろうか。