海の上に浮かぶ灯台

2020/02/25

灯台船とは?

岬にたつ各地の灯台のことは知っていても、海に浮かぶ灯台についてはあまり知られていない。日本語では「灯船」や「灯台船」、英語では「Lightship」もしくは「Lightvessel」という。灯台を建てることが困難な海上に錨泊させて航路を示すのだが、その姿はまさに船と灯台が合体したような姿をしている。

灯台船のこと始め

1732年、イングランド・テムズ川河口にあるノアサンドという砂州の位置を知らせるために設置されたのが最初と言われ、その後、イギリスだけではなくドイツ、フランス、ノルウェー、フィンランドなど、北ヨーロッパの国々で運用された。

ちなみに、最初に灯台船を考え出したのはロバート・ハンブリンというイングランドの貧しい床屋だという。

河川から流れてくる砂や石は河口に溜まって砂州となる。テムズ川の砂州にも乗り上げる船が多かったのだろう。形状が変化する砂州に対して、船の上に灯台を乗せるという彼のアイデアに投資家が賛同し、灯台船が生み出された。その後、砂州だけでなく、灯台建設が難しい海上で使われるようになった。

イギリスやドイツでは現役の灯台船がまだあるが、多くの灯台船はブイに変わっていった。老朽化した船を新しく造船するよりも経済的だからだ。退役した多くの灯台船は、海事系博物館で展示されることもあれば、内装をリフォームされ、レストランや音楽ホール、貸スタジオとして、第二の人生を歩んでいる。

写真提供:原 亜緒衣さん

明治期の灯台船

日本でも灯台船は使われていた。日本初の灯台船は明治2年11月19日に初点灯した本牧灯船で、現在の「横浜シンボルタワー」の沖合あたりに錨泊し、横浜港の入口を知らせた。この船は横浜で作られた木造船で、灯台船であることを知らせるため赤く塗られ、昼は球状の形象物をマストの上に掲げ、夜になると灯器を掲げ赤い光を放っていた。

同じ形状の灯台船は函館にも設置され、明治期にはこの2つの灯台船が重要な役割を果たした。

写真提供:公益社団法人 燈光会

船の上の灯台守

灯台船には、灯台守と船乗りを合わせて10名弱が乗っていて、4時間交代の見張り勤務や、入出港する船舶の記録、気象観測、霧の発生時は5分おきに鐘を鳴らす等、様々な業務が課せられていた。

また、本牧灯船は一度沈没している。英国商船が衝突したのだ。幸い負傷者はでなかったが、過酷な仕事に加え、危険も隣り合わせであった。

日本最後の灯台船

明治期の本牧、函館灯船に加えて、日本にはもう一隻、灯台船があった。東京湾の入口を示していた東京灯船で、昭和22年から昭和43年まで使われていた。

東京灯船が引退したことで、日本から灯台船の存在は無くなったが、灯器だけはお台場の「船の科学館」で野外展示されている。

写真提供:公益社団法人 燈光会

個人的なことで申し訳ないが、私が灯台を好きになったきっかけとなったのは、東京灯標という海上の灯台だ。実はこれは東京灯船に代わる存在として建てられたものだった。

羽田空港や城南島海浜公園から眺めることができたので、たびたびその姿を眺めに行った。とくに夜、暗い海から投げかけられる光は優しく、でも寂しげ。その光には音も言葉もないのに、琴線に触れる存在だった。

しかし羽田空港の滑走路増設に伴い、東京灯標も取り壊されてしまった。

写真提供:野田一樹さん

船でありながら、旅や移動を目的にせず、船を守るために光を放っていた灯台船。暗い海上で、光を灯し続ける姿は孤高の存在であっただろうと想像する。