人里離れた難所に建設され灯台守とその家族の労苦を後世に残す 【鹿児島県肝属郡南大隅町 佐多岬灯台】

2023/03/28

本土最南端の佐多岬からさらに50メートル先にある大輪島(おおわじま)に建っているのが佐多岬灯台だ。1872(明治4)年、中国大陸と横浜間を航行する船舶の重要な目標として建設された。用いられた資材は、島と島とを結んだゴンドラで運搬された難工事だったことでも知られている。しかしこの初代佐多岬灯台は1945(昭和20)年に空襲で大破し、現在の灯台は1950(昭和25)年に再建されたものだ。

その特殊な立地から船でしかアクセスできない佐多岬灯台だが、地元に住む大迫健一さんは「最初に行ったのは小学生の時で、商売をしていた父の手伝いで(灯台守に)食べ物を届けに行っていました」と語る。60年ほど前のことだ。

いまは無人となっている佐多岬灯台だが、1963(昭和38)年までは灯台守が常駐しており、岬の東側には灯台守の官舎が今も残されている。周囲に人家ひとつないこの場所に、灯台守とその家族が住み込み、海の安全を守っていたのだ。

大迫さんは「柿山さんという灯台守の方が昭和29年に来られたのですが、他に誰もいないところなので寂しい思いをされたみたいですね。本当はもうひと家族いるはずが(子どもに)学生がいた関係で学校の近くに住まいを借りたので、官舎に住むのがひと家族だけになってしまったようです」と灯台守の思い出を語る。

佐多岬観光案内所には、生後6ヶ月の子どもを伴って長崎からやって来たという柿山さんの妻、柿山アツ子さんによる手記が展示されている。

「ネコの仔1匹来ないようなこんなさびしいところに何年いるのだろうか? ヨチヨチと歩く何も知らない子どもが、毎日赤いソテツの実を持って遊んでいるうちに、次の子が生まれ4人家族となりました。この子どももミルクで育てなければならない。隣部落まで40分、山道を子どもを背負ったり歩かせたりしてミルクを買いに行きました。20才で岬へ来た私、10年間苦労を乗り越えてきた今日、顔はしわだらけ、本当の年を当てる人は一人もおりません」(「黒潮と戦い十年間~集約管理を目前にして~」より)

灯台守だけでなく、その家族もまた必死の思いで辺境の地の灯台に点し続けた灯りは、今日もまた大輪島の断崖の上で大隅海峡を照らし、海の安全を見守り続けている。

 

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