忘れ去られゆく海洋文化—灯台とともに紡ぐ新たなナラティブ
2025/05/19
本稿は、「海と灯台学」2024年度研究紀要「海と灯台学ジャーナル 創刊準備号」に掲載された「海と灯台学ジャーナル 立上げによせて」からの転載です。
※「海と灯台学」について詳しくはこちら
忘れ去られゆく海洋文化—灯台とともに紡ぐ新たなナラティブ
池ノ上 真一(北海商科大学 一般社団法人日本海洋文化総合研究所)
灯台は不要か?
海と人との関わりは、太古の昔から続いてきた。漁業や航海、交易を通じて、海は私たちに計り知れない恩恵をもたらしてきた一方で、災害や事故といった脅威も常に存在していた。筆者自身、ダイバーとして海と向き合いながら、その両面性を実感してきた。東日本大震災や能登半島地震など、海がもたらす災害の爪痕は深く、人々の記憶に刻まれている。しかし、海の恵みなしに暮らすことはできない。人々は禍福を乗り越え、海と共に生き続けてきた。
このような海洋文化を支えてきたものの一つが灯台である。「光波標識」の一つである灯台は、長年にわたり航路の安全を守ってきた。しかし、GPSなどの電波標識が発達した現代において、灯台の役割は相対的に低下しつつある。「灯台はもう不要なのか」という問いが生まれるのも無理はない。しかし、灯台は単なる航路標識以上の価値を持つと信じ、活動を続ける人々がいる。
その一例が、日本財団による「海と灯台プロジェクト」である。本プロジェクトは2020年に開始され、一般社団法人海洋文化創造フォーラムを中心に、海上保安庁や文化庁、自治体と連携しながら灯台の新たな可能性を模索している。その前身である「恋する灯台プロジェクト」(2016年開始、一般社団法人日本ロマンティスト協会・公益財団法人日本財団主催)から、足掛け10年近い取り組みである。灯台を観光資源として活用したり、地域住民の教育の場としたりすることで、灯台は単なる航路標識を超えた存在へと生まれ変わろうとしている。
筆者らも「海と灯台プロジェクト」の一環として、学際的な視点から「海と灯台学」の体系化を目指し、領域横断的な学術コミュニティの形成に取り組んでいる。今年度は『海と灯台学ジャーナル』の創刊や共同研究会の開催を通じて、海洋文化の継承と発展に貢献することを目指している。陸の時代が続く中で、海洋文化は忘れ去られようとしている。しかし、海とともに生きてきた人々のナラティブ(物語)を紡ぎ直すことで、私たちは海と灯台の新たな価値を見出せるはずだ。
海と人の関係を掘り下げる
海とともに生きてきた人々のナラティブは、歴史的資料や文学、民俗学的研究、地域の伝承など、さまざまな形で記録されている。特に、沿岸地域の漁師や船乗りたちの口承伝統、航海日誌、民話などは、彼らの生活の知恵や価値観を伝える貴重な証言である。また、近年では「海と灯台プロジェクト」などの取り組みにより、灯台を中心とした地域の物語が掘り起こされ、その価値が見直されつつある。
灯台は、従来の光波標識としての機能だけでなく、地域のシンボルや観光地としての役割を果たしてきた。しかし、近年の技術革新により、その航行支援の機能は縮小しつつある。この状況の中で、灯台が果たす新たな役割が模索されている。灯台を文化遺産として位置づけ、地域の歴史や文化を伝える場として活用することで、観光資源としての魅力が高まり、結果として海に生きる人々のナラティブを継承することが可能となる。
遺産学の視点から見ても、灯台の再評価は重要な課題である。遺産とは誰のものであり、何のために継承するのかという根本的な問いが存在する。多くの遺産は環境の変化や技術の進歩によって当初の役割を失っているが、それでも人類の未来にとって価値のある財産として保存・活用することが求められる。ユネスコ世界遺産の取り組みは、その代表例であり、過去の遺物の保護ではなく、未来の世代への貢献を目指すものだ。灯台もまた、その歴史的価値とともに、現代における新たな意義を見出し、人々の記憶とともに未来へと継承されるべき存在なのである。
多様な学問領域からの視点
本ジャーナルでは、学術的なアプローチを通じて、灯台の持つ多様な価値や存在意義を見直し、人類や地域の未来への貢献のあり方を検討することを目的としている。特に、建築学や土木学、景観論、考古学、地質学、生態学、社会学、地域学などの専門分野から多角的な視点を提供し、灯台が持つ文化的・社会的な意味を問い直す。
創刊準備号である本号では、遺産学が持つ「価値再発見」と「価値創造」という二つの視座を援用し、灯台と人類や地域社会との関わりを掘り下げた。価値再発見の視点としては、まずは、灯台が日本と世界をつなぐ機能を担い、それを支えた科学技術や日本独自の技術・文化的背景に着目している。さらに、地形や地盤といった環境要因にも光を当て、灯台が築かれた土地との関係性にも着目した。また、産業遺産や文化財としての価値の認識、保全・活用の課題についても言及した。
一方、価値創造の視点では、新たな灯台との関係構築に注目した。例えば、子どもをはじめとした次世代への継承、観光資源としての活用の視点がある。また、地域コミュニティとの結びつきを深めることで、社会・経済的な動向とも連携させる試みも重要である。特に、灯台を地域のナラティブの一部として組み込み、物語を通じた観光振興を図ることが期待される。
さらに、本号後半では、灯台の建造物としての価値評価の必要性や、ジョン・アーリの「観光まなざし論」を援用した灯台の観光史への視点、灯台が生み出す心象風景と地域の物語との関係についての考察を研究ノートとして収録した。
灯台ナラティブの地平
灯台の価値を未来へ継承するためには、その文化的・歴史的意義を再評価し、新たな役割を見出すことが求められる。特に、文化遺産やまちづくりにおいて重要視されるナラティブに着目することは、灯台の新たな価値を創出する上で有効な手法となる。ナラティブは、人々の共感を生み出し、文化的な結びつきを強化する要素であり、世界遺産や日本遺産でもすでにその手法が活用されている。
このナラティブを広める手段として、観光、ソーシャルメディア、マーケティングの活用が考えられる。これらは単なる情報発信のツールにとどまらず、灯台の持つ物語を多くの人々と共有し、新たな価値を生み出す役割を果たす。プロダクトアウト(灯台の意義や価値の提示)とマーケットイン(現代社会における需要の把握)を組み合わせたアプローチが求められる。
本ジャーナルは、灯台ナラティブを掘り起こし、現代の社会課題や地域課題の解決に結びつけることに貢献したい。例えば、防災分野では「Phase Free」という概念がある。これは、日常と非日常(防災)を結びつけるアプローチであり、学術成果を基にした認証制度を通じて、防災意識を暮らしの中に自然に組み込む試みである。灯台の持つ物語を発信し、多様な学問領域と連携することで、灯台の未来を支える新たな価値を創出することを目指す。
執筆者紹介
池ノ上 真一( 1973年11月16日)
■ 出身地:大阪府堺市
■ 所属:北海商科大学 教授
■ 学位:博士(観光学)
■ 専門:都市・地域計画、観光まちづくり、地域マネジメント
「技術の人間化」を理念とする芸術工学を学ぶ。竹富島や日本ナショナルトラストで観光を活用した地域づくりに従事し、北海道大学准教授を経て、現在は北海商科大学教授・日本海洋文化総合研究所代表理事。
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