灯台の100年後に想いを馳せて ―重要文化財指定の意義―

2025/07/22

本稿は、「海と灯台学」2024年度研究紀要「海と灯台学ジャーナル 創刊準備号」内の特集「海と灯台学を捉える視点〜世界・日本・地域〜 Part.2 新たな価値の創造」からの転載です。
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灯台の100年後に想いを馳せて
―重要文化財指定の意義―

髙月 鈴世(下関市教育委員会)

はじめに
本州最西端に位置する山口県下関市は、三方が関門海峡、周防灘、響灘に臨み、豊かな自然と歴史が織りなす風土によって育まれてきた開港都市である。関門海峡は、旧くは源平合戦の最後を見届け、また、幕末に繰り広げられた四国艦隊下関砲撃事件は開国の契機となるなど、時代を画する舞台としても知られている。

四国艦隊下関砲撃事件に端を発する洋式灯台の築造は、当初こそフランス人技術者が担ったが、駐日英国公使の斡旋により来日したリチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton、1841-1901)にその任が移り、わが国の近代航路標識システムの礎を完成させた。下関市及び対岸の福岡県北九州市には、ブラントンの指導監督になる航路標識が3基現存し、いずれも2020(令和2)年12月23日に現役灯台として初となる重要文化財(建造物)(以下「重要文化財」という。)の指定を受けた(※1)。その後も現役灯台の重要文化財指定は続き、2025(令和7)年1月1日現在、16件を数える。

本稿では、これら3基の灯台の概要と指定後の取り組みを紹介した上で、今後の展望について記す。


1. 重要文化財に
指定された灯台の概要

①六連島(むつれじま)灯台

六連島灯台(撮影 吉岡一生)

関門海峡の西口にあたる六連島は、下関市彦島の北西約5キロメートルの響灘に浮かぶ島で、六連島灯台は島の北東端の断崖上に建つ。兵庫開港に伴い瀬戸内海に整備された灯台5基の一つとして、明治4年11月21日(1872年1月1日)に初点灯した(※2)。航路が屈曲し、難所となる関門海峡の安全な航行のために設置されたもので、わが国最初期の石造灯台として貴重であるとともに、この設置以降瀬戸内海航路の整備が本格化したことに鑑み、わが国の海上交通史上価値が高いとされている。


②部埼(へさき)灯台


部埼灯台(第七管区海上保安本部提供)

部埼灯台は、前述の瀬戸内海の灯台5基の一つであり、明治5年1月22日(1872年3月1日)に初点灯した。関門海峡の東口となる企き救く半島の北東方の断崖上に建ち、海上交通の要所である関門海峡のみちしるべとして、六連島灯台と対をなす。

部埼灯台には、灯火管理を行う灯明番の住居だった石造の旧官舎が残る。六連島灯台にも同じように官舎があったが、滞在管理が廃止された昭和40年代に解体された。

また、明治40年代には、関門海峡を行き交う船舶に交通状況や潮流の方向を告知するために、通航潮流信号所が設置された。その施設の一部である旧昼間潮流信号機が残り、旧官舎とともに重要文化財に指定されている。


③角島(つのしま)灯台

角島灯台(撮影 吉岡一生)

角島灯台は、響灘に面する角島の西端に位置し、1875(明治8)年12月30日に竣工した。翌年3月1日に初点灯し、この時の第1等フレネルレンズが現在も使用されている。日本海側に初めて設置された灯台であり、竣工時は石造灯台で最も高いものだった。灯台はほとんどの場合白い塗装が施されているが、角島灯台は御影石の美しい石肌を見せている。

参観灯台である角島灯台では、灯塔内部の石の螺旋階段を登り、バルコニーから海を望むことが出来る。また、煉瓦造の旧官舎と旧倉庫が残り、前者は「角島灯台記念館」として資料を展示し、公開している。いずれも重要文化財である。


2. 文化財指定の経緯

①下関市の指定文化財から重要文化財へ
六連島灯台及び角島灯台は、下関市及び市町合併以前の旧豊北町が文化財に指定し、現役灯台の文化財指定の先駆けだったが、両灯台を管理する海上保安庁第七管区海上保安本部と下関市教育委員会では、指定と同時に文化財の価値の所在を外観に限定し灯台の機能の維持向上のための行為は維持の措置とする覚書を交わし、外観保存という点で現在の国登録有形文化財(建造物)の保存と同じような考え方を適用していた。

現役灯台の重要文化財指定の動きは近年生じたものではなく、遅くとも角島灯台が下関市指定文化財になった2005(平成17)年以前には、文化財関係者の間で議論がなされていた。長らく実現しなかったのは、根強い文化財アレルギーとでも言うべく、指定により制約が生じ、灯台の機能の維持向上とは相反する行為と考えられていたことが理由のようである。しかし、GPS の導入などに見る技術革新の中で灯台自体が廃止の憂き目に遭う中、歴史的灯台の文化財指定を推進し、地域の観光振興に活かしていく取り組みが国の施策に位置づけられたことにより、現役灯台の重要文化財指定が具体化し、現在に至っている。


3. 重要文化財指定後

-未来への継承のビジョンをどう描いていくか-

①「保存活用計画」の策定
上記の経過に加え、関係者のさまざまな努力により重要文化財に指定された現役灯台が誕生したが、指定はゴールではなく、あくまでも始まりである。灯台をはじめとする社会資本は、適切な維持管理のもと使い続けることが保存に繋がる。後世へ受け継いでいくには、灯台の運用と文化財としての保存を円滑に行うことが肝要となり、重要文化財指定後にその拠り所となる「保存活用計画」を策定している。保存活用計画は、灯台の運用を妨げずに弾力的に文化財の保存を行うことを前提としているが、文化財として護り伝えるべきものは確実に存在する。したがって、保存活用計画では保存に重点を置く部分と改変が許容される部分を明確にし、想定される状況に対し柔軟に対処できるよう考慮されている。また、灯台の保存と活用に関する中期的なビジョンを関係者が共有する手段として機能している。

②重要文化財指定の先にあるもの
改めて現役灯台の重要文化財指定が意味するところについて、瀬戸内海を例に取ると、重要文化財が6件あり、重要文化財全体の4割弱を占めている。うち5件はブラントンの指導監督による(※3)。これらは各々が固有の価値を有しているが、一連のものと捉えれば、明治初期の航路標識整備は、開港場である兵庫への航行を安全なものにし、その後の神戸を起点とする東アジアや日本海側への定期航路の就航、ひいては経済活動等の促進に貢献した。また、明治40年代に初めて設置された通航潮流信号所は、瀬戸内海特有のものであり、当時の主要施設が唯一現存する旧大浜埼通航潮流信号所施設(広島県尾道市)は、潮流が速く多島海であるこの海域の特徴を顕著にあらわす(※4)。現存するこれらの文化財からは、航路標識システムの形成において瀬戸内海が重要かつ難関の地であったことが認められ、地理的要因による影響が大きいことを物語っている。

重要文化財の指定は主に建築の歴史から評価したものであるが、複数の灯台を一つのシステムとして認識し、多角的に見ることにより、今後新たな評価が付加されていくことだろう。瀬戸内海の灯台の特徴はその一例であり、重要文化財指定を機に学際的な研究が促され、その成果が還元されることで、灯台の保存と活用は新たなステージを迎えるのではないかと思う。


おわりに

幕末に始まる航路標識整備なくして西洋技術や文化の導入は始まらず、「海のみちしるべ」は正に「日本の近代化のみちしるべ」であった。また、連綿と続く維持管理の上に今日の重要文化財指定が成り立っていることを考えれば、先達に敬意を表し、それを承継する責任の重さを感じている。

文化財の保存は一日にしてならず-これから先の100年、更にその先へ向けて、現役灯台の文化財としての取り組みは始まったばかりである。灯台が歩んできた150年以上の足跡には及ばないが、これから文化財の歴史を刻み始める灯台の、その未来への橋渡しに多少なりとも携わることが出来たことに感謝したい。

(※1) 国指定文化財等データベース(https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index)より。この3基に加え、犬吠埼(いぬぼうさき)灯台(千葉県銚子市)が同時に指定を受けた
(※2)ここで言う5基の灯台とは、友ヶ島(和歌山県和歌山市)、江埼(兵庫県淡路市)、和田岬(兵庫県神戸市)と六連島及び部埼である。和田岬灯台を除いて現存する。また、江埼灯台は重要文化財に、友ヶ島灯台は国登録有形文化財(建造物)になっている
(※3)ブラントンの指導監督になる5件は、江埼、六連島、部埼のほか、鍋島(香川県坂出市)及び釣島(愛媛県松山市)の各灯台である
(※4)旧大浜埼通航潮流信号所施設も、潮流信号塔、昼間潮流信号機、夜間潮流信号塔(大浜埼灯台)及び検潮器波除塔が重要文化財に指定されている


旧大浜埼通航潮流信号所施設(尾道市提供,撮影 村上宏治)


執筆者紹介


髙月 鈴世
(1972年6月17日)
■ 出身地:山口県下関市
■ 所属:下関市教育委員会
■ 専門:日本建築史

下関市教育委員会文化財保護課にて、下関市内の歴史的建造物の保存活用に取り組む。これまでに、六連島灯台・角島灯台の重要文化財指定のほか、重要文化財旧下関英国領事館の保存修理(2008-2014)を担当。


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