北前船の航海を支えたランドマーク 〜常夜灯・日和山・灯台〜
2025/06/12
本稿は、「海と灯台学」2024年度研究紀要「海と灯台学ジャーナル 創刊準備号」内の特集「海と灯台学を捉える視点〜世界・日本・地域〜 Part.1 価値の再発見」からの転載です。
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北前船の航海を支えたランドマーク
高野 宏康(小樽商科大学)
はじめに
江戸時代から明治以降にかけて、日本海・瀬戸内海航路を中心に北海道と列島各地を結んでいた商船、北前船が活動した時代には、常夜灯や灯明台、高灯籠、日和山から洋式灯台(近代灯台)まで、様々なタイプの航路標識が存在した。北前船は、前近代と近代に重なる時代に活動し、様々な形態のランドマークを利用していたことから、筆者はそれらを航海と交易、交流を支える装置群や制度群として把握することで、近代灯台に留まらず、「灯台」的なものの日本的なあり方やその特徴を明らかに出来るのではないかと考えている。
本稿では、以上の視点から、日和山、常夜灯、灯台の共通点と相違点に着目し、その役割、変遷の過程について、小樽の事例を中心に考察してみたい。
灯台・常夜灯・日和山の共通点と相違点
航路標識としての灯台を歴史的に遡ると、日本では奈良時代に遣唐使船の目印として炊かれた篝火が挙げられるが、建造物として現在確認されている最古の事例は、鎌倉時代、摂津国の住吉大社に建設された高灯籠である。その後、江戸時代になると航路の整備、海運の発達により、各地に常夜灯、灯明台が多数建設されるようになるが、これらは港や岬だけでなく、港に近い神社の境内等に設置されていることも多く、航路標識としての役割は共通しているが、設置場所は近代灯台とは異なっている。
日本最初の近代灯台は、1869(明治2)年2月に点灯した観音埼灯台とされるが、その後も常夜灯が各地で航路標識の役割を継続していることが多く、光達距離が短いことから諸外国から日本近海の航行は危険であると認識される傾向があった(海上保安庁灯台部編、1969)。
日本では江戸時代以降、日和山が重要な航路標識の役割を果たしていることが特徴である(南波、51p)。日和山は、古くは東北地方の鰺ヶ沢港など阿倍比羅夫の征夷に遡るともいわれるが、文献で確認されているのは、1663(寛文3)年に伊豆国下田にあった大浦の日和山が現存最古とされる。日和山は、船乗りが出港前に天候を見た山であり、江戸時代に沿岸航路が整備され、海運が発達していた時期、各地に設置されていったと考えられている。日和山は単なる地形、山ではなく、船舶の寄港地に整備された港湾施設の一種であることが重要である。日和山を総合的に考察した南波松太郎は、その役割を、「主役目」と「副役目」に分類して整理している(南波、前掲書、7p)。前者として、①日和をみる、②出船を見送る、③入船を見る、④入船との連絡、⑤入船の目印になることの5点を挙げ、後者として、①遊覧場所であること、②商人の商況判断の資料を得ること、③唐船見張り番所の設置・砲台の築造の3点を挙げている。主な目的である「日和を見ること」は共通しているが、各地の日和山は、それぞれ役割が異なる。また、日和山には方角石(十二支で表した方位が刻まれた石)が設置されていたことも特徴である。
日和山の役割は、近代灯台と重なりつつも異なる部分を持つ。日和山は、航路標識だけでなく、船の出入港時の確認や連絡、さらに商人の商況判断などを包括する幅広い機能を持つ港湾施設であった。日和山は、20世紀半ばまで現役で利用されていたが、その後は開発により消滅したものが多く、「日和山」の地名だけが残る地域も多い。汽船など動力を持つ船は、風向きや天候は帆船ほど航海に影響しないため、日和山の役割は次第に低下していったが、眺望の良い場所に設置される傾向があったことから、遊覧場所や見張り番所等が設置されることもあった。日和山は日本以外には存在しないとされ、日本的な航路標識のあり方を考える上で重要である(南波、41p)。
小樽港の様々なランドマーク
小樽港では、日和山、常灯台、近代灯台が設置されており、時代によって場所や役割が変化している。以下、小樽港を事例として、それぞれの特徴、役割の変化について検討する。
小樽は、江戸時代後期、ニシン漁場として賑わい、北前船が来港する港として発展した歴史を持つ。小樽港では、江戸時代後期から幕末にかけて、北前船の船乗りや商業者によって、祝津地区の高島岬が日和山として整備され、活用された(図1)。方角石は現存しておらず、日時計と台石があったと伝わるがこれも現存しない。小樽の日和山は後述の通り、その頂上に近代灯台が建設され、その名称が日和山灯台となり、「日和山」の地名が残る唯一の近代灯台となっている(高野、2018、6p)。
図1.日和山と日和山灯台(小樽市祝津)