学芸員・櫻井敬人氏が伝える「灯台×物語」による史料継承の重要性(全国灯台文化価値創造フォーラムより)

2020/01/29

2019年12月10日に行われた「全国灯台文化価値創造フォーラム」。灯台のある全国自治体が一堂に会し、灯台の利活用についてさまざまな意見交換や発表が行われました。

新たな視点からの灯台の利活用をテーマにした有識者によるプレゼンテーションでは、和歌山県・太地町歴史資料室学芸員でアメリカ・ニューベッドフォード捕鯨博物館顧問学芸員でもある櫻井敬人氏から、灯台やその周辺での海難事故をモチーフとした物語の存在と、歴史をひもとく資料の重要性についての発表がありました。

灯台が建てられる場所の多くは「海の難所」と呼ばれる場所。潮の流れが速く複雑だったり、岩場が多いことで事故にあってしまう船が多い海域です。それでもその難所を避けることはできず、常時航行させることが必要。だからこそ、船の行く先を照らす灯台が求められた、と櫻井氏は語り始めました。

和歌山県の最南端、紀伊半島に位置する熊野灘(くまのなだ)もそうした海の難所として知られ、半島の先端には「恋する灯台」にも認定されている「潮岬(しおのみさき)灯台」と「樫野埼(かしのざき)灯台」の2基が建てられています。

江戸と大坂を結ぶ商船の多くは紀伊半島を回り込む航路をとり、黒潮の速い流れに翻弄されて座礁したり、沈没したりといった事故にあったといいます。外国船も例外ではなく、開国後まもない頃にアメリカやフランス、イギリス、オランダといった西洋諸国からもこの海の難所へ灯台の建設を求められたのだとか。

京都や大坂などの上方と江戸を結ぶ先便が増えるにつれ、陸から海に向かって吹く風に押し流され、そのまま太平洋へと漂流してしまう船も増えました。多くはそのまま命を落としてしまいますが、まれに外国船の助けを借りて帰国に成功する船もあったそう。

天保12(1841)年、高知県を出発した後に漂流し、潮岬沖にある鳥島に漂着した際に、マサチューセッツ州ニューベッドフォードの捕鯨船「ジョウハウランド号」の乗組員に救われた中浜万次郎(ジョン万次郎)の話は特に有名です。

鳥島への漂着は他にも記録があり、日本人を助けた捕鯨船には様々なお礼がなされ、ニューベッドフォード捕鯨博物館には、そのときに江戸幕府から受け取ったとされる品々が収蔵されています。

また、遭難した外国船を助けた日本人たちの物語も記録に残っています。

オスマン帝国(トルコ)の軍艦・エルトゥールル号は明治23(1890)年、明治天皇と謁見を済ませた使節団を乗せての帰途で台風に遭い、樫野埼で座礁しました。500名以上の乗組員が命を落としますが、69名は救助されました。こうした「死なせまいとする」人々の思いは多くの感動を呼び、映画『海難1890』のモチーフの一部にもなり、トルコと日本の友好を示す作品として知られています。

さらに、と櫻井氏が強調したのは、それよりも前の寛政3(1791)年に起こった海難事故です。

未だ鎖国中であった日本の紀伊半島に、2隻の外国船が漂着しました。日本国内の記録では船が漂着したこと、その船に星条旗がはためいていたことがわかり、その船の正体はマカオからやってきた米国の商船「レディー・ワシントン号」と「グレイス号」だということが後に判明します。

ところが、エルトゥールル号と違って、この2隻の船がどのように助けられ、港を去っていったのかの記録は日本にはありません。当時の領主である南紀徳川氏の記録には「侍がかけつけたところ、すでに異国船は立ち去っていた」との記述があるのみです。

ニューベッドフォード捕鯨博物館に残されているグレイス号の航海日誌では、紀伊のネイティブ(日本人)たちが数日間にわたって精力的に乗組員を助け、食料や燃料を分けるなどの生活支援をしていたことが細かく記録されています。また最後には「あなたたちを助けたことが知られたら領主に殺されてしまうので、出ていってほしい」と告げられたという記録も残っているそうです。

こうした記録はアメリカに残っていたもので、日本にはこれらの史料は残っていません。エルトゥールル号の記録と比較して、この2隻の外国船と日本人との交流を示す史料があまりにも少ない、と櫻井氏は語ります。

歴史の海に沈められてしまった多くの出来事があり、それらを引き揚げることは非常に困難をきわめます。何が起きたのかを正確に知るためには、史料の存在を頼るほかありません。櫻井氏は史料が全ての人に開かれた遺産であることを改めて指摘し、灯台と共に、紡ぎ出される物語によって歴史を明るく照らしてほしい、と締めくくりました。